箱日記

ライブに行った感想を細々とつづっています。

音楽を鳴らし続けろ

ここ数日、いやもっと前から音楽のことを考えている。

あれよあれよという間に2月は3月になり、4月を超えて5月になった。
冬は春になり、もうすぐ初夏に手を伸ばす。今年の桜は何色だっけか。
冬枯れの海っぺたで、凍えるほどの寒さの中、チケットとドリンク代を握り締めて列を作ったのが2月のこと。あれが直近のライブということになる。まるで遠い昔のようだ。

 

 

かといえ音は消えていない。音楽はいつもそこにある。
わたしの生活はといえば、小学6年生になった息子が毎日家にいることと、月に2回は出張に出ていたはずの夫が在宅で仕事をしていること、そして自分自身も時々在宅で仕事をしているくらいのもので、体調不良などもなく日々を過ごしている。

一番変わったのはTwitterのTLかもしれなくて、週末にはいそいそとライブに出かけていくフォロワーさんのツイートや、ライブ終了後のバンド公式ツイートがパタりと消えたかわりに、配信のお知らせで賑わっている。

『ワンマンツアーではなく対バンで全国をまわるバンドがたくさんいる』という理由で、平時、バンドマンのライブ回数は恐ろしく多い。きっと同じ理由でツイキャスYoutube…などなど、配信ツールは色々だと思うがあっちに呼ばれ、こっちに呼ばれと忙しそうである。

家にいながらネットにさえつながっていれば観ることができるという点において、WEB配信はとても手軽だ。地方に住むわたしにとっては交通費もかからないし、家族との調整も気軽にできる。

Wi-fiはある。パソコンもスマホタブレットもだ。WEB配信を見逃す理由は何一つない。リアルライブで言えばライブハウスの横に住んでいるかのような便利さだ。

ただどうしてだろうこの満たされなさは。緊急事態のせいでそうせざるを得ない状態となってしまったためか、突如としてあらわれた大きなムーブメントに気後れしてしまっているのだろうか。何かが同じ方向に走りすぎるとき、その流れに乗るかどうか立ち止まって考える時間が欲しい。結果が同じであったとしても、自分自身で選び取ったものでありたいのだ。

わたしの中で「わたし」という像がぶれる瞬間だ。新しいものや楽しいことが好きで、好奇心旺盛に手を伸ばし、行動力がある。わたしが自認している「わたし」、いわば光をあてている部分はこんな感じで。それはきっと間違ってはいないのだろう。しかし全てではないのだと思う。

わたしは今回の出来事に自分が思っているよりも振り回されていて、まだどこに軸を置いて振舞うべきかを考えあぐねている。人の価値観が変わる瞬間は多々あれど、小さな気づきの積み重ねではなく、とても大きくコントロール不可な出来事によって意図せず変えざるを得ないということがある。知っていたけれど経験するのは初めてなのだ。

いつも紙一重で何も起こらない。そうした大きな出来事は自分の人生と少しだけ距離があった。

配信についてのこのモヤモヤをすっきり言語化してくれているnotoの記事があった。

現代音楽産業というのは最早「体験」を売るビジネスになっていますが、昨今試行錯誤されているライブ配信は生では味わうことができた「何か」が削ぎ落とされてしまい、体験の強度が落ちてしまっているように個人的に感じます。きっとその「何か」は大事なものだったのでしょう。

引用した箇所から続く文面は、本当にうなづいてしまった。配信が新しい可能性としてそこにあること自体は絶対的にそうなのだけど、ライブハウスの良さを全て伝えきれないだろうと思うのだ。むしろマイナスに作用する可能性だってあるんじゃないかとぼんやり思っていた。是非を問うわけではない。むしろ是非を問うてしまうのなら『是』である。

わたしはきっと音楽が大好きな人間じゃない。だけど音楽を聴きにライブハウスに行きたいのだ。
「大好きな人には会いに行く」ここ10年くらいの、わたしの人生のコンセプトだ。
アナログからデジタルに基盤を移していくことで、アナログの良さが見えてくるという不思議な現象は、きっとわたしの興味範囲だけのことではないのだろうと思う。隙のない効率化されたものよりも、不便さや理屈では説明できないものの中に、自分だけの良さを感じるのだと思うのだ。

今回の騒動が落ち着いて、それでも完全に元のようには戻らないだろうという声も聞く。新しい生活様式についてご丁寧に発表もあったばかりだ。

WEB配信のお知らせツイートがTLを埋め尽くしている。平日は21時開始が多いイメージだ。土日は昼間に行うバンドもある。ツアーが軒並み中止となった当事者にとっては死活問題だ。
投げ銭システムは少しでも貢献したいと思うファンと、困っているバンド側にとってwin-winの良いシステムだと思う。

新しいものに不安を覚えるのは、きっとわたしがそれだけ年を取ってしまった証拠なのかもしれない。答えはどこにもなくて、正解もない。
ライブハウスはなくならないとライブハウスで生きてきた人たちは口をそろえてそう言う。今はただそれを信じたい。