箱日記

ライブに行った感想を細々とつづっています。

2018年3月11日 打首獄門同好会at武道館

【音楽文】生活密着型音楽依存症生活 ~陸続きの夢を重ねて~
     http://ongakubun.com/archives/4186

武道館前のわたしの想いを【音楽文】という投稿サイト(上のURLからリンクしています)につづったので、実際に行って、体感したその日のことを書きました。記憶力には全く自信がないので、レポではなくこれはただの個人の感想です。

 

 満員御礼ソールドアウト。大きな大きなそのステージの上で「またライブハウスに遊びに来てください」とそんなことが言えるバンドがどれほどあるだろうか。
 お祭りのようなライブが終焉に向かえば、会場全体に漂う名残惜しさ。あと1曲、そんな時ステージの上からは観客と次の約束をしたくなるものだろう。

ーー今日が楽しくて、また楽しみたいと思ったら、ライブハウスに来てください。そしたら全力で応えます。ーー

 大澤会長(Gt/Vo)は言った。約1万人の観客を前にした『これからの自分たちの姿』という約束である。
 一言一句覚えていない。そんな余裕はない。だが、打首獄門同好会との約束はライブハウスにまた行くことだ、とわたしは認識している。

 

 2018年3月11日。
 午後の晴れやかな空の下で、わたしは長い長い列に並んでいた。背負ったリュックの中に充電器をいくつか装備していたのは、わたしのスマートフォンは連絡を取り合うという役割以外にも、音楽を聴くために活躍してくれているからだった。
 うねうねとした列にいる人たちの多くは背中に『獄』という文字を背負っている。打首獄門同好会のグッズに刻まれるシンボリックなその文字は、定番商品は少し強面な印象を受けるものの、コラボ商品になると可愛らしくもなり、非常に汎用性が高いのだ。
 外の門までずらりと並んだその人の列は、グッズを求める人の列である。わたしが到着したのは物販開始時間からわずか45分ほど経った頃。最後尾のスタッフに尋ねると2500人という答えが返ってきた。

 わたしはライブの日に早くから会場へ到着するのが好きだ。大体の感覚として15時頃までに行けば、リハーサルをしている音が漏れ聞こえてくる。何をするでもなくその音を聴いているのが好きなのだ。
 今日は16時OPENの17時STARTだったので、わたしが並んでいる時間はちょうどリハーサルの頃で、その大きな会場が揺れそうになるくらい重たい音が外まで聴こえてきた。イヤホンをはずして今この瞬間しか聴けないその音に耳を傾ける。
 音源化されたものはスタートを押せば曲が頭から流れる。そして停止を押さなければ止まらない。しかしリハは気持ちよく聴いていたら突然終わったり、途中から始まったりする。そうした聴き手側の都合によらない不規則な部分が、いつも聴いてるあの曲が本当に楽器を持った彼らが一つ一つ奏でているものだと思えて感慨深い。
 

 獄な人々の群れはその多くが物販にたどり着けなかったのではなかろうか。少なくとも、わたしは途中で離脱してしまった。並ぶのに飽きてしまったわけでもなく、単純に入場整理の時間となったからだ。

 日本武道館。武道を志すものにとっても聖地でありながら、ミュージシャンの憧れのステージである。
 初めて訪れたその大きすぎる会場は、ほとんど小さなライブハウスにしか足を踏み入れたことのないわたしには未知の世界だ。
 ドリンク代の支払いがない代わりに、チケットを何度も見せなくてはならなかった。アリーナはオールスタンディングとはいえ、ブロック分けされている。わたしはA3ブロックで、ステージ上手側だった。
 階段で下るように促され、現れた入り口をくぐる。すると高い高い天井に大きく掲げられた日の丸の旗。3階席まであるスタンドには並んだ椅子がステージを取り囲むようにこちらを見下ろしている。
 ステージには大きなモニターが3つ。両端は演奏中の様子を映し出すもので、センターに君臨する大画面は打首獄門同好会のライブではおなじみのVJ(ビジュアルジョッキー)システムである。
 米だ、肉だ、魚だ、うまい棒だといった歌に合わせて、映像や歌詞が映し出される。その操作をステージの上で担当するのがVJの役割だ。

 打首獄門同好会のライブは初めて来たお客さんでも、曲を知らなくても、モニターを見れば合いの手やコールアンドレスポンスなどのやり取りがしやすいという親切設計だ。
 その特別大きい本日のモニターには、開演までの待ち時間にと、お楽しみ動画を流しているのだから、それはもうサービス精神に溢れている。ファンの間では次回作を楽しみにしている人も多い『10獄放送局』という、彼らの良さしか出ていない手作りのインターネット番組だ。

 実は15時から予告編がネットで配信されていた。武道館の外で物販の列に並びながら、リハの音を聴きながら、『10獄放送局』を観る。なんて贅沢なんだろう。もうすぐ始まるアニバーサリーライブに向けて期待感が大きく膨らんでいく。ただ待っているだけでも充分セルフでテンションを上げていけるほどだというのに、公式は容赦なくぶっこんでくるのだから、思わず手を合わせ「ありがたいなー」と祈ってしまうのである。
 打首獄門同好会のライブは、終始こうしたスタンスで執り行われている。漏れなく抜かりなく情報が届けられる。きっとみんなが楽しめるフロアを、ステージから眺めるのが好きなのではないだろうか。
 始まる前からこれでもかとてんこ盛りにされた打首らしさ。これまでの集大成と言わしめる今日のステージとは果たしてどんなものになるのだろう。

 わたしはまだ誰も立っていないステージを眺め、そしてアリーナから後ろを振り返り、1階席から3階席まで、くまなく会場を見回した。開演時間が近くなって、空きが目立っていた席が埋まり、ソールドアウトの破壊力が圧となって高いところから見下ろしている。
 わたしは何だか嬉しくなってしまって、にこにこと、にやにやと分類不能な笑みがこぼれた。ステージの袖から出てくるメンバーが圧倒されるくらいの景色となるべくが、一人ひとりに与えられた役割なのだ。
 その時のわたしの位置はアリーナ前ブロックの上手側5列目ほど。思ったよりもステージから近い場所だった。もちろん観客席とステージでは見える光景が全く違う。でもどんなものかくらい想像したってバチは当たらないはずだ。

 中央のモニターの動画が終わり、客席の照明が落ちる。「始まるね」と口々に話す声が聞こえた。武道館がちょっとした緊張に包まれる。大きな箱も小さな箱もスタートの合図は変わらない。大きな音と派手な映像。ライブハウス武道館での、打首獄門同好会ライブが始まる。
 さあお祭りの始まりだ。

 よく見える場所をと考えてつい前のほうに陣取っていたが、よくよく考えればこのあたりはライブハウスでいうところの前から3列目ほどの危険ゾーンであることに気がついたのは、先ほどまで良い感じで空いていた隙間をめがけて後ろから大量に人が流れ込んできたからだった。とにかく、人、人、人で、普段の生活の中でこれほどに押されることはないというほどに、背後から左右からひきりなしに空きスペースを埋め合う。
 わたしは、わたしのフィールドはここではないと感じて、エビのように身体を丸めて背中から、ブロックの1番後ろまで逃げて来た。視界が広がる。ライブは自分なりに好きな場所で楽しむのが1番良い。

 記念すべき1曲目は『DON-GARA』
 和太鼓の音とと掛け声から始まるこの曲は、あす香さん(Dr/Vo)の「どんどんどん」という声に続いて「がらがっしゃ」とコールするのが気持ちいい。
 そしてなによりも疾走感のあるギターが、一気に気分を上げてくれる。
 わたしは技術的な知識はないので、難しいことを語る口を持っていないが、聴くだけで走り出せそうな曲で、ライブの1曲目にはぴったりの定番曲だ。男鹿からやってきたゲストのなまはげが和太鼓を叩いて盛り上げる。駐車場に停まっていた秋田ナンバーの車はこの人たちのものだったのか。待ち時間の間に生まれた疑問の答え合わせをしている気分だった。

 そしてそのまま2曲目に突入する。イントロが始まった瞬間、わたしは判断能力が一瞬にして下がってしまったのか、しばらく聴くまで理解できていなかった。「違うかもしれない」と「絶対合ってる」がせめぎ合って、えーっと…と何かを考えているようで空っぽの頭をもてあましていた。しかし打首獄門同好会のライブはそんなわたしに親切設計だ。センターのモニターには歌詞が出るのだ。
 Junkoさん(Ba/Vo)の流暢な英語が流れるように聴こえてくる2曲目のタイトルは『音楽依存症生活』
 この曲はわたしが今日のライブでぜひとも聴きたかったものだった。要約すると、生きてりゃ毎日色々大変だけど、俺たちみたいな音楽バカは耳からイヤホンさせば力が湧いてくるだろう? と言っているこの曲を、今日はイヤホンからではなく、響き渡る大音量で、大勢の観客で埋め尽くされた武道館で聞いている。こんなに大きな舞台であっても、「こっち(ステージ)もそっち(観客席)もどっちも同じ音楽バカじゃないか。一緒にがんばろうぜ」と、わたしにはこの歌がこう聞こえるのだ。何だかもう叫び出しそうに嬉しくて、明日のことは気にもとめず、人の渦から外れたブロックの1番後ろでピョンピョンと跳ねた。

 1曲目というのはどんなバンドでも、だいたい候補が絞り込まれているものだ。それは始まりましたよ、というのをアナウンスするような意味もあるのではないかと思っている。いくつか定番の始まり方というのがあって、『DON-GARA』はまさにそうであった。
 だからこそ2曲目の選曲によって、上がり始めたボルテージがどんどん加速していく。大事じゃない曲など存在しない。しかしどういう順番で持ってくるかは、セットリストを作る上で意図するものがあるに違いない。 

 こうしたアニバーサリーライブなら、初期の曲は古くからのファンは懐かしく、わたしのような新参者は初めてのレア感があり、どちらにもお得だ。
 あの音が、あの歌詞が、あの言葉が、いつかの状況が、武道館で再現される。聴いている方も、演奏している方も、色んなものを抱えて今日という日を迎えているはずだ。大澤会長が「ライブハウス武道館へようこそ」とあの伝説のMCを言ったらしいのだが、いくら思い出そうとしてもわたしにはその記憶がない。なぜだ。魂が抜けていたとしか考えられない。

 我が家に唯一あるZepp東京ワンマンライブBlu-rayを何度も再生して予習をしてきた印象では、打首獄門同好会のワンマンライブは本当にお祭りだ。今回もゲストが入れ替わり立ち替わりやってきて、とても贅沢だった。
 何よりも出てくるゲストの方々が「呼ばれて出番があるから来ました」という感じではなく、「打首が武道館に出るなら応援に行くよ」というスタンスで参加してくれた方たちばかりなのがとても良い。一緒にこの日を祝いたい、という気持ちがにじみ出ているから、曲がハードであっても、ステージに漂う空気がとても優しいのだ。その中でも歌わない、楽器を持たないでも来てくれるスペシャルゲストを集めるのって、もしかしてすごいことなのかもしれない。
 わたしたち観客はそんなステージのお祭り騒ぎを共に楽しみ、笑い、踊り、頭を振り、まぐろを泳がせる。大人の事情で発売中止となった新生姜ペンライトだって会場できらめいている。会場のどこかにいるはずの岩下社長は泣いているに違いない。
 汗だくになりながら“せせりコール”や”つくねコール”にめいっぱい参加する1万人の観客は、みな昨日の立場も明日の事情も関係なく、ただ今のこの瞬間を楽しむためだけにそこにいる。

 

 今日もうまい棒の時間がやってきた。
 配布が難しいスタンド席にはあらかじめ1本ずつ座席に設置されていたようだ。あれだけの席に一つずつ配置するのだから、なかなかに地味で骨が折れる作業だ。ただ、席についたらうまい棒が置いてあったからといって、セットリストのネタバレをツイートする人はいない。そんなことは無意味だとみんな知っている。打首のライブではうまい棒が登場しない日の方が少ないのではないだろうか。

 これまで何度も10円駄菓子が詰まった袋を持ってステージに立っていた彼らは、その本数が多くなっていくことを、どのように感じていたのだろう。
 まだお客さんが少ない頃はきっと、おもむろにうまい棒を取り出して笑わせたことがあっただろう。それと同じくらい笑われてしまったこともあっただろう。もしかすると投げ返されてしまった日もあったかもしれない。お客さんがフロアに残していったゴミはメンバー自ら片付けていたのではないだろうか。こんなものはわたしの勝手な想像だ。実際がどうだったかは知らない。ただ変わらないで続けていくのがどれほどに大変なことかは、わたしにも少しだけ分かる。

 アリーナでは後ろへ横へ、手渡しでうまい棒が渡り歩いていく。いつもより少しだけ奮発した打首獄門同好会オリジナルデザインのうまい棒であっても独り占めする人もいなければ、受け取ってすぐに食べちゃう人もいない。曲の最中はあんなに激しくぐちゃぐちゃに盛り上がっている前方の人たちも、言われたとおりにうまい棒を回していき、あす香さんが物販のお知らせをしている間にブロックの最後尾にいるわたしのところにもちゃんと届いた。
 「約束守れますか?」と言った大澤会長の言葉をみんなちゃんと守るのだ。

 そうして手にしたうまい棒サイリウムに、始まったのは『デリシャスティック』。この曲のMVは随分と古く、静止画をつなげただけの手作り感あふれる作品である。
 今も検索すればyoutubeの公式チャンネルで観られるそのMVは、知らない人からすれば、まさか十数年後に満席の武道館で演奏されるとは思わないだろう。しかもたくさんの観客がうまい棒を手に持ち、「うまい棒! うまい棒!」と声を枯らさんばかりに叫びながら振っているなど、きっと想像もつかないから、だから打首のライブはおもしろい。

 

 

 結成して最初に作ったという『Breakfast』という曲は、タイトルそのまま、朝ごはんの歌だ。

『朝だ!飯だ!エサだ!残さず食え!全て食べたら行けや GO!
 これから1日世のクソ共とやり合う為のエネルギーだ!』
【Breakfast/打首獄門同好会

 わたしは初期の頃の曲が好きだ。ほとんどは方向性として一貫したものがあるけれど、今と少しだけ趣が違うものが混ざっていて、試行錯誤の痕跡がみえる。
 個人的に大好きな、南武線の駅名を連ねるだけの歌詞で構成された『今日も貴方と南武線』は「らしいな」と思わせる初期の代表曲である。youtubeには小さなライブハウスで今より少し若いメンバーが演奏している姿がわりとたくさん残っていて、今日の日の予習教材として何度も再生した。
 今の姿からさかのぼっていって昔の曲を聴くことができるのは、後追いの良さだと思う。共に追いかけてはこられなかったけど、出会うタイミングというものは人それぞれだ。

 そういえば物販で並んでいたときに、リハの音漏れはセットリストバレだと話している声を聞いた。わたしにとって音漏れはご褒美でしかないので、そう考える人もいるんだなくらいに思っていたが、実際のところワンマンライブだからこそみんなが期待していたであろう曲は含まれていなかった。
 後日たくさん流れてくる感想ツイートの中に、そのことについて書かれているものがあって、わたしも改めて気がついたことだ。2時間以上も並んでいたのに、リハーサルでは誰もが予想できる曲ばかりが聴こえてきていた。
 打首獄門同好会はどうすれば来てくれる人たちが一番楽しんでくれるのかというのを、ちゃんと考えてくれている。伝えなければならない情報と、サプライズのバランスがちょうどいい。

 あっという間に時間は過ぎていき、その中で印象の強いものだけが記憶に強く刻まれていく。
 日本の米を世界一だと叫んだら、お金が欲しいと福沢諭吉を呼ぶ。曲数を数えている余裕など1ミリもないが、流れ的に考えて終わりが近いことを知るのがこのあたりだ。
 物販で散財した人たちの諭吉コールは切実なことだろう。普段はせいぜい月に1度くらいしか来てくれない1万円札(福沢諭吉)も、この日だけは呼べば必ず現れることをみんな知っている。そし降ってくるそのお札が思い出としての価値しかなく、コンビニで使ってはいけないタイプのものであるということもだ。

 ついに日本武道館の高い天井からお札が降ってくる。アリーナから見上げたその景色は壮観だった。頭の上に降りそそぐお札がライトを浴びてキラキラと光り輝いている。ステージのみなさんには申し訳ないが、これはフロアにいる者にのみ見ることを許された景色だ。
 わたし達がお札に気をとられている間にも演奏は続いている。そちらも観ていたい、しかし舞い降りてくるお札もつかみたい。届きそうで届かない。ひらひらと静かにわたしの手をかわしていくお札。葛藤しながらも上を向き、必死に手を伸ばしている様子は、はたから見ればさぞ間抜けなことだろう。でもメンバーはきっとそんな風に必死に楽しんでいる観客の姿を見るのが好きなのだと思う。

 どこが折り返し地点であったのか分からないまま、あっという間にアンコールの時間になってしまった。ステージはメンバーがはけてしまい、観客だけが取り残される。
 打首獄門同好会のアンコールは”最初から! 最初から!”だ。愛が溢れすぎていて微笑んでしまう。みんな打首さんたちのこと大好きだな!わたしもだ!
 アンコールのコールがいつのまにか拍手だけになってしまっているライブは少し寂しい。やっぱり声をかけていたいし、その声がステージからいなくなってしまった彼らの耳に届いて欲しい。アンコールというのは不思議なもので、9割方出てくることは決まっているというのに、空っぽのステージに向かって声をあげるのだ。これが愛ではなくてなんだというのか。

 “最初からコール”を受けて再びメンバーがステージに現れた。しかし大澤会長が楽器を構えてもその声は止まなかった。両手をギターから離してまぁまぁと静める。
 「最初からだと、また青木くんが騙される動画からになっちゃうよ」
 そうだ、今日のライブは『10獄放送局』の予告編が開場前に生配信されるところから始まっていた。
 もう一回最初からやってよ、もっともっと観ていたいよ、という気持ちを握りしめて、わたしたちは残り少ない時間を楽しもうとしている。

 その気もちを引き取って「あと、ちょっとだけ演ります」と、そう言って唐突に、大澤会長が夢の話を始めた。眠って見るほうの夢だ。話はレム睡眠とノンレム睡眠にも及ぶ。
 わたしは『夢』がテーマの歌などあったかな? と考えを巡らせるが思い当たらない。『寝る』がテーマの曲は2曲ある。そしておそらくそれがアンコールとなる2曲なのだと思った。
 とはいえ、どうもピンとこないのだ。大澤会長はもっと伝えたいことをちゃんと含ませて言葉にできる人だ。しかしなぜか今は面白い話をしようとしているのか、それとも良い話なのかが、表情でも声色でも判断できない。着地点がみえない話は少し緊張してしまう。珍しいなと思っていたら、曲に入る前の一言でわたしの印象はひっくり返されてしまった。

 ——いい夢を見ていて目が覚めてしまった時、もう一度寝ればその続きが見られるんじゃないかって思うことがある。それが今の俺の気持ちです。——

 そして始まった『布団の中から出たくない』
 MVがネットで話題になって、知名度がさらに上がるきっかけとなった、まだ新しい曲だ。コウペンちゃんという愛らしいキャラクターありきで作られた曲はとても可愛い。寒い朝は布団から出るのが億劫だと歌っているこの歌は、いまや世界中で翻訳されてものすごいまでの再生回数を誇っている。
 しかしその時のわたしには全く違う意味に聞こえた。

 今日は長くて短い楽しい夢の日だ。
 ソールドアウトの武道館。満員の観客たちは1枚のチケットを握り締めて、全国さまざまな地域からこの場所に集った。ああこんなに幸せな時間は永遠に終わってほしくない。わたし達はこの心地の良い夢をずっと見ていたいのだ。布団の中から出てしまいたくない。
 作った人はずるい。たった一言に想いを込めて詞の意味を変えてみせる。

 打首獄門同好会のアンコールは”最初から! 最初から!”だ。こんなに楽しいライブはもう一度“最初から”と願わずにはいられない。

 アンコール2曲目は曲の途中に長い台詞がある。その日のライブでの出来事を混ぜながら、大澤会長のアドリブ語りとVJの掛け合いがフテネコの映像とともに楽しめる最後の曲。語られるテーマは『幸せな瞬間』だ。冒頭の約束はこの場面でわたし達の前に取り出された。

『人それぞれのささやかな生活。
 気の持ちよう価値観次第で、そこに幸せがあるんだったら——』
【フローネル/打首獄門同好会

 幸せとは何かと問う。何かと葛藤するようなそんな壮大なテーマは彼らの曲の中には出てこない。白米が美味しい、肉を食べたい、イヤホンを耳にさして音を聴け、お風呂最高! そうだ幸せは、人それぞれのささやかな生活の中にある。

 打首獄門同好会は生活密着型ラウドロックバンドであり、生粋のライブバンドである。彼らの歴史はついに満員の武道館をライブハウスにしてしまった。まさにそれは、ハードな音に様子がおかしい歌詞と大澤会長が表現する楽曲のように、絶妙なバランスで生まれる彼らだけのオリジナルである。

 恥を承知で正直に書くが、わたしは密かにもしかしてこの武道館でメジャーデビューの発表があったらどうしようと思っていた。(そしてもしあったら何だかちょっと嫌だなとも思っていた)
 1年前の新木場でのワンマンライブで今回の武道館が大々的に発表されたのだ。実際に武道館の日を迎えて今度はそれ以上のことがあるのでは、と考えた時に、もしかしてと思い当たった。
 しかし違った。今考えればわたしは本当に新参者で浅はかである。

 打首獄門同好会は一歩づつ目の前にある小さな目標をクリアしていくことで、大人の事情マジックを使わず、ライブだけでここまで上りつめたバンドなのだ。だからこそ決して俺たちのいるところまで上ってこいなどと言わない。いつだってみんなで一緒に楽しもう。楽しいことを一緒にしよう。そのみんなの数が、規模が、大きくなっただけのことだ。
 少しずつ広がっていったからこそ根底が変わらない。だからこれから先、またライブハウスで彼らを観たいと思ってしまう。「もうあのバンドは小さい箱ではやらないよね」とはならない。「打首はやっぱりライブハウスの方が面白いよね」と言ってしまうバンドなのだ。
 それを大澤会長は約束してくれた。

 最後の写真撮影には、ゲストを全員呼び込んだ。1人ひとりの大切な仲間たちを丁寧に紹介していく。ファンには馴染み深い人たちばかりだ。そのせいでこんなに大きなステージなのに何だか手作り感に溢れていて、今日のライブを涙を流して喜んでくれる人たちに囲まれ、たくさんの幸せに包まれている。

 

 スペシャルなライブが終了し、ステージの熱が残ったままの武道館を振り返れば、角ばった屋根の下にその場を離れがたい人たちが、投げ出された夜の中で、それぞれの想いを抱えていた。
 獄一門という肩書きを背負った人たちと、わたしは無事にビールにありつくことができた。終了後に酒が美味いライブが、最高のライブだ。それだけは常に正しい。

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 3月の空は薄い青が暖かい中に少しだけ冷えた空気と花粉を運んで、気持ちいいほどに晴れていた。
 翌日の朝、ホテルの部屋で昨日のライブのセットリストと同じ曲でプレイリストを作る。イヤホンから流れてくる1曲目を聴いた時、少しだけ時間が巻き戻るような気がした。

 九段下駅の出口から坂を見上げると、かの有名な歌のとおり、たしかに大きな玉ねぎが見えてくる。ライブ当日はとにかく余裕がなくて、逸る気持ちを抑えきれなくて、小走りで駆け上がった。そして途中で息も上がった。わたしはそんな年齢だ。
 昨日のことをなぞるように、通勤のサラリーマンとすれ違いながら坂を上っていく。

 しかしたどり着いたそこはすでに、強者どもが夢の跡。獄が描かれた背中も、たくさんの花も、物販の長い列も、何より正面に掲げてあった看板も姿を消している。心地よい春の晴天の下で、武道館は昨日のことなど知らないふりをしてそこに建っている。改めて眺めるその建物はあまりに大きすぎて、昨日の楽しいお祭りは夢だったのではないだろうかとそんなことを思う。
 だが残念ながら夢ではないからこそ、その日は終わってしまうのだ。どんなに楽しくても、そこにいた誰もが終わらないでと願っても。

 武道館ライブの最後、お約束の”せせりコール””つくねコール”で写真を撮った。終演後に大澤会長のTwitterにアップされたその写真には、わたしが開演前に探したステージからの景色が写っている。
 この景色はきっと打ち上げのビールがたまらなく美味しくなる瞬間を切り取ったものだ。

 

 

 興奮は余韻となり、楽しさは思い出となり、身体は痛くなる。ライブの翌日はいつだってそうだ。
 それでもあのひと時の高揚感を求めて、またライブハウスに行きたくなる。

 紙のチケットを握り締めて家を出る。イヤホンからはお気に入りの音楽が流れている。走り出したい気持ちを抑えて飛び乗った電車の中で、何度も忘れ物がないかを確認して、最終的には携帯と財布とチケットがあれば、あとは何とかなるのだと開き直る。そして到着した箱の前で、中から漏れ聞こえてくるリハの音を聴き、OPENまでの時間を過ごすのだ。

 

 あす香さんのTwitterにアップされた写真には、まだガランとした会場の写真が添えられていた。数時間後たくさんの"幸せ"が溢れる空間で、わたしは彼らが望んだ景色の一部になれたのだと信じたい。