箱日記

ライブに行った感想を細々とつづっています。

春盤からは「ありがとう」しか聞こえない

 我が家に春が来た。

 季節としてのそれも確かにそうだが、そうではない。わたしの春は20℃近くまで上がった気温や、桜の開花ニュースや、青みがかった空が振りかざしてくる光ではない。
 ただ、ただひたすらに待ち望んでいた1枚のCDの到着のことなのだ。

 前回の記事で、わたしは日本武道館という場所で体験したライブの感想を書いた。自分の中で感じたことを忘れないうちにアウトプットすることを目的に書いたものを、思いがけずたくさんの方々に読んでいただけたことは、本当に驚きしかない。
 でもよく考えればあの日のライブには、1万人近い(公式発表は約9000人)人たちがいたのだ。パーセントではとても表せないわずかな方々であったとしても、わたしの文章にたどり着いてくださったとするならば、きっととてつもない確率だと思う。そして人数にかかわらず、わたしの嬉しさに変わりはない。(本当にありがとうございました。)

 

 

 さあ我が家にやってきた春ーー 『春盤』と名付けられた5曲入りのCDである。
 これは打首獄門同好会の武道館ライブまでの連続企画の1つ、春夏秋冬の夏から4連続リリースされた作品の最後の一枚だ。シングルなのかアルバムなのかと聞かれれば『ミニアルバム』になるのだろうか。
 昔はリリースされるCDといえば、シングルとアルバムという2つの種類があり、その差は見た目でもすぐに分かるものだった。8センチシングルを見かけなくなってどのくらいだろう。いつの間にかCDディスクのサイズはすべて12センチになってしまっている。
 呼び方も『ミニアルバム』という言葉が出てきてから、わたしにはいろんな区別がつかないまま今に至る。(ちなみにこの文章を書くためにWikipediaを読んでみたが、さっぱり分からなかった)

 なんだか本題までがとても長くなってしまったが、とにかくわたしは音楽のことがよく分かっていない。有名な楽器メーカーの名前くらいは知っているが、えらそうに機材がどうとか、演奏方法だとか、録音がどうしたなど、音の良い悪いも含めて何一つよく知らないただの素人なのだ。
 そんなわたしがCDの感想を書こうというのだから、これは本当に無謀としか言いようがない。しかしそれでもイヤホンで『春盤』を聴きながら、こうして文章と向き合っているのには理由がある。
 どうやらわたしはライブから数日経っても、どうしても武道館から帰ってこられないようなのだ。何を見ても、何をしてても、あの日の事がほわんほわんと頭の中に浮かんできて、すぐに引き戻されてしまう。
 
 こればかりはどうしようもない。思い入れが強すぎることが要因だろう。ならば気持ちを整理するために、わたしは思うところをアウトプットしていく必要がある。ただそれだけのことなので、いわゆるレビューのようなものとはかけ離れていたとしても、何かしらを書き記すことで折り合いをつけたいと思っている。

 今わたしの手元にある『春盤』は、武道館の物販と公式通販の2つのルートしか購入手段がない。武道館ライブの1週間前、大澤会長のTwitterでそう発表された時、画面のこちら側でわたしは「え、マジ?」と思った(し、つぶやいた)。
 ただでさえ武道館という大きな箱。どれほどの人数がそこに集まるのかが、わたしには全く想像できなかった。しかしそんなわたしでも物販にイメージするのは、長蛇の列である。
 実際に当日は長蛇の列であり、Tシャツやリストバンドといった限定アイテムは売り切れてしまった。今となっては何を言ってもそれが事実なのである。しかしグッズというのは買わないという選択肢を持つ人もいると思う。好きなバンドだからライブやコンサートにも行くがグッズは買わない、というのはよくあることだ。
 かく言うわたしも、観劇の時はあまりグッズを買わない方だ。ライブのように次の観劇にそのグッズを身につけていくという習慣がないからというのが理由である。
 だからその場に行った人全員が物販に並ぶとは思っていなかったし、列はできるだろうがまあ大丈夫かなと漠然と思っていた。
 しかし4連続リリースCDの最後の一枚となればまた話は違ってくる。
 しかも、武道館のネタバレを大いに含むから、ライブが終わるまで開封しないでほしいというお願いつきツイートを見て、わたしは物販との戦いが長時間に及ぶことを覚悟した。
 どれだけ特別感を盛ってくるんだよ! と思わず鼻息が荒くなってしまったのは、すでに予約済みの飛行機の時間が、物販開始時間よりも前にわたしを武道館に送り届けてくれないことが判明していたからだ。

 それでもまだ、どこか楽観的に考えていた。当日、早朝から続々とツイートされる武道館到着の文字を眺めながら、でもたくさんスタッフもいるだろうし、でもたくさん数を作ったって言っていたし、とそんな事を考えていたのだ。
 結果は惨敗であった。ライブ中のMCで大澤会長が「完敗しました」と想像以上の人数に対して開演までにさばききれなかったことを申し訳なさそうにしていた。売れに売れて儲かったぜ! ではない人柄に癒されこそすれど、結果としてわたしは惨敗したのである。

 そんなわたしに残された道は公式サイトでの通信販売のみ。転売の情報に胸を痛め、腹を立てながらも、あらかじめ予告されていた日時に照準を合わせて、とにかくミスのなきよう購入するしか道はない。

 通信販売の当日、サイトのサーバーが落ちるのではないかとか、一瞬で売り切れるのではないかとか、いろんな事を心配して1時間前からログインしてその時間を待っていた。
 そわそわワクワク、少しの不安。何かを手に入れたいと強く思う気持ちは貴重だ。世の中にはあらゆる物の代替品があふれていて、これだけは…と思える品物というのはあまり多くない。
 しかしわたしの心配をよそに、何1つ問題は起きぬまま、あっという間に武道館記念タオルと春盤をゲットすることができた。たくさん作った、と会長が言っていたのは本当だったのだ。

 何をどのくらい作るのかを考えるとき、売り上げ予測を立てる必要がある。多くの場合、前年度比など参考データに基づいて決められていくものだが、今回の武道館に関しては予測が立てづらい。前年度比なんてものはあるはずもなく、近似値としてどのようなデータをもって決めたのだろうか。個人的にはとても気になるところである。

 悩んでいる間に売り切れてしまっては困ると、通常商品とは別に、まず記念タオルと春盤のみを購入した。結局はそこまでする必要もなく、注文を分けたことでただ単に送料を余計に払わせてしまったことは本当に申し訳ない。
(売り切れ商品の入荷時期がズレたことへの対策として、送料無料キャンペーンなるものが開催されているのだ。どこまでも打首さんたちのスタンスは優しい)

 さあ、わたしのようにワガママな消費者は、注文を無事終えると今度は到着時期が気になるものだ。おそらく普段に比べて一気に注文が入ったであろう商品たちが、わたしのような末端の消費者に届くにはどれほどの時間が必要なのか。それは誰にも分からない。
 わたしが荒ぶる消費者となっている頃、武道館公演を終えた打首さんたちメンバーは1ヶ月というお休み期間に突入している。にもかかわらず、それぞれ三種三様に休みを満喫している様子が、Twitterのつぶやきで垣間見ることができるのだから、SNSのある時代とは本当にありがたい。遠い空の向こうに思わず手を合わせて拝んでしまうくらいに贅沢なことだ。

 余談だが、わたしは彼らのツイートやブログなどで発信されるものが大好きだ。作品や本来の活動であるライブの様子をとても丁寧にこちらに過不足なく伝えてくれる。その姿勢だけでも、ああ良い人たちだなあと思えるのに、言葉の使い方が人柄をとてもよく表していて、読んでいてとても幸せな気持ちになれるのだ。直接お伝えする機会は恐らくないだろうから、このインターネットの片隅に書き記しておくことにする。大好きです。

 そろそろ手元に春盤が届いている人もいるかもしれない、というお休み中の会長からお知らせツイートがあった時点では、まだわたしの元に発送連絡は届いていなかった。まだかな、まだかな、と不安と期待をふわふわさせながら、なんどもメールを確認した。

 今回の作品について、なぜ一般の流通にのせなかったのか、大澤会長のツイートを読みながら、わたしはその言葉を噛み砕いて受け取る。そして言っている意味はとてもよく分かる、そんな風に思っていた。

 武道館の夜、獄一門の飲み会の席で見せていただいた春盤のジャケットや、収録されている曲は、たしかに武道館のネタバレが盛大に含まれていた。
 しかし実際のところ、わたしは頭で理解していただけで、本当にその意味をちゃんと飲み込めてはいなかったのだ。そしてそのわずかな違いについては、ようやく届いた春盤を実際に再生してみるまで、気づくことが出来なかった。

 

 三寒四温とはよくいったもので、春に向き合うわずかな期間に、気温は上下を繰り返す。桜のつぼみがぷっくりと膨らみ始め、いつの日からか花が顔を出す。春は毎年のようにこうしてわたしを惑わして、いつの間にか冬と季節を交換していくものだ。
 春の匂いを間近に感じながら、待っていたわたしの元にようやく発送メールが到着した。その2日後、信頼できる流通システムに乗っかって、待ち望んでいた『春盤』が届いた。

 どこで聴くか、どうやって聴くか。待っていた時間が長かった分、そんなことを考える楽しみにも恵まれた。ありがたいことに外の気温もすっかり春めいている。

 きっと泣きますよ。楽しみすぎてツイートを繰り返すわたしにフォロワーさんからそんな言葉をもらった。なるほど思い入れが強いほど、感情があふれて涙が出るものだ。

 わたしは届いたCDを静かに眺める。開けないでね、と猫が言う。大丈夫だ、もうあの日は終わっているのだから。

 夏も秋も冬も、他の季節の盤はCDのコンセプトとなる写真やイラストがジャケットに採用されていて、彼らの姿はなかった。しかし春盤は違う。そこにはあの日たしかにわたしがたどり着いた武道館の前で、打首さんたち3人が立っている姿がある。まだその日を迎えていない写真に、獄を背負った人々が様々な想いを抱えて集った景色が重なる。

 帯には「日本武道館、ありがとうございました!」と書いてある。なんだよ、ありがとうと言いたいのはこっちの方だ!
 そんなことを思いながら、パソコンに取り込んでいく。誤って再生ボタンを押してしまわぬように注意を払った。

 わたしは春の桜を眺めながら、ひとりで聴くと決めていたのだ。

 武道館のセットリストに合わせて作ったプレイリストに、曲を加える。未完成だったセットリストは、武道館から戻ってこられないままのわたしの日々に寄り添ってくれていた。
 しかしようやく完成した。わたしはとても大きなことを成し遂げたような気持ちになり、休日を楽しむ家族を置いて家を出る。

 わたしの自宅から歩いてすぐのところに神社に併設された小さな公園がある。程よく田舎な地方都市の片隅にある公園には、今時の安全性重視の遊具ではなく、わたしが子どもの頃に遊んでいたような古めかしいものがそのまま残っている。
 所々塗装がはがれたジャングルジム。黄色とブルーのはっきりとした色合いがせめてもの抵抗であるのだろうが、メンテナンスの行き届いてない状況が時の流れを感じさせる。
 ある雑誌で、他のアーティストたちがイケてる感じの写真で掲載されている中、夜の公園のジャングルジムで戯れる姿をチョイスされていた会長の姿を思い出す。

 桜の木の下、これまた年季の入ったベンチに腰掛けた。見上げるとまだ咲きが甘い桜の花。
 何かが少しだけ足りない景色。それでいい。わたしの手には待ち望んでいたものが過不足なくそろっているのだから。

 プレイリストを聴くか、それとも頭からまず春盤を聴くのか、少し迷った。しかしまずは、CDとしてのはじまりとおわりを聴くべきなのではないだろうか。そう思って再生ボタンを押した。

 

【1. はじまりのうた】

 マイナー調の静かなギターから始まるこの曲のことはよく覚えている。武道館のオープニング画像とともに流れていた曲だ。

 戦国絵巻と名付けられた4つの企画。それを1つずつなぞりながら、歌にしたものだ。企画は『約束』という言葉に置き換えられ、ひとつひとつを達成していけば、その炎が灯る。武道館で聴いた時、わたしたちの目の前にある大きなスクリーンの中で、その約束の炎は1つずつ灯っていった。

 新参者のわたしは去年のワンマンライブを知らない。戦国絵巻の約束が少しずつ果たされていく姿をほとんど見ていない。だからこの歌を聴いて泣いてしまう人たちが本当に羨ましいのだ。

 この炎を灯したのは彼らだけではないから。だってフェスもライブも、お客さんがいないと成立しない。発表されるライブのそのひとつひとつに、あの日ならあの場所なら。そうやって仕事を調整し、お金を工面して、時間を作り、家族との折り合いをつけて、チケットを買い、交通機関を手配して…と、いろんなものを差し出して楽しもうという人たちがいなければ、地図はきっと埋まらない。
 だから『約束』なのだと思う。

ーーかくして時は流れ 約束の日は訪れた。
  さあ あの日に約束した 宴を始めようーー
(はじまりのうた/打首獄門同好会

 はじまりのうた、これは武道館ライブのはじまりを飾ると同時に、1年前のワンマンライブではじまった『約束』の歌だ。

 

【2. 47】

 「新曲を演ってもいいですか」武道館のステージで大澤会長がそんな風に言っていたような気がする。わたしにとってもはや記憶はとんでもなく信用ならないものだ。

 47とは47都道府県のことだ。
 なんらかの形でという注釈付きではあったが、全ての県でライブを演る。という約束を経て作られた歌である。

 わたしは本当にぼんやりとなのだが、ツアーを終えた彼らが作る曲は全国の名所や特産物が並んだ歌なのではないかと思っていた。しかしそうではなく、この歌は北海道から沖縄県までを地域ごとに並べた、ある意味小学生の学びの友になるような歌であった。
 ちょうどその年頃の子どもを抱えるわたしにはとてもありがたい。米だ、肉だ、魚だ、うまい棒だと、わずか9歳の息子の記憶域に根付いていく打首さんの曲が、学業へと結びつくなら親としてこんなに嬉しいことはないだろう。小学生にとってのワークライフバランスとはまさにこのことである。

 中部地方のあたりが非常にかっこいい。急に語彙が少なくなってしまったが、音楽理論など全く乏しいわたしには、これが限界だ。

 近畿と中部に所属する三重県の立ち位置や、いつも九州地方に含まれることが多い沖縄県のあり方など、改めて知らない土地にも想いを馳せることができる。
 「そして沖縄県」と歌うJunkoさんの嬉しそうな声がとても輝いている。

 なんだかんだ言っても所縁のある土地への思い入れを、それぞれが持っている。
 そう考えると、わたしが思い描いていた特産品や名所の歌は、誰もが共感する形に仕上げるのは難しいだろう。わたしだって『広島風お好み焼き』と聞けば「そんな食べ物はない」と思ってしまうし、『博多ラーメン』と言われれば「長浜ラーメンのこと?」なんて言ってしまうくらいのこだわりを持っている。
 しかし県名なら自分の住んでいる県の名前が出てくるだけで、なんだか嬉しい。

ーー47都道府県 あなたの住まいはどの付近
 ここで会ったのも何かの縁でしょうーー
(47/打首獄門同好会

 誰もがどこかに住んでいる。わたしたちが会いにいくのか、それともまた来てくれるのか。どちらなのかは分からないけれど、どこかでまたいつかきっと会えるでしょう。

 打首さんのバランス感覚がわたしは大好きだ。

 

【3. Breakfast】

 打首獄門同好会が結成後、初めて作った曲。現在手に入るもので考えると『庶民派爆弾さん』というアルバムに収録されているものの再録である。
 この曲を初めて耳にした時、わたしは少し驚いたのを覚えている。

 最初に作ったのが『朝ごはんの歌』だというのは、過去のインタビュー記事を読む中で何度か目にしていた。なので「あーこれか」とすぐに分かったのだが、あまりの違和感から、思わずポケットからスマートフォンを取り出してタイトルを確認したくらいだ。
 もちろんよく聴けばいろんな引っかかりがあるのだが、わたしが驚いたのはたったひとつの単語だった。

ーー朝だ メシだ エサだ 残さず食え 全て食べたら行けや GOーー
(Breakfast/打首獄門同好会

 サビの部分のこの歌詞。『エサ』という言葉が出てきたことに本当に驚いてしまった。

 武道館でも演奏した曲の約半分が食べ物の歌であったというくらい、彼らの歌は食に関するものが多いのだが、打首さんが歌う食べ物ソングはどの曲も食への愛に溢れている。
 食べ物をエサと呼ぶこの感覚は、少なくとも今の歌詞にはないものだ。

 感想文にも書いたのだが、わたしは初期の頃の歌が好きだ。
 この少し粗暴な表現も、ターゲットの絞り込みと、既存ジャンルを意識した歌詞作りなのではないかなと思えて、その試行錯誤が好きなのだ。
 結成当時、彼らはもう20代も半ばである。にもかかわらず歌詞に『午前の体育』や『英単語』という言葉が出てくるということは、もしや多くのロックがそうであるように、ターゲット層を10代としていたのではないだろうか。…よもや勝手にそんな妄想をしてしまうくらいにはこじらせている。

 とはいえ、わたしの妄想がどうであれ、今や打首獄門同好会は老若男女、様々な客層に愛されるバンドである。既存のジャンルの何かではなく、軸をブラさず続けてきたことが彼らだけのオリジナリティとなり、性別や年齢を問わず多くの人が共感を得ている。それはまぎれもない事実だ。

 今のようにニコニコと食べ物への愛を語るような打首さんたちが、そこに至るまでの歴史が、わたしは本当に大好きなのだ。そしてこの曲はあの武道館というステージで再び演奏され、集大成という言葉と共に再録という形で音源化された。

 新旧の曲を聴き比べてみると、キーも変わらなければ、バージョンいくつ、といったような目立った違いがあるわけではない。わたしが聴き取れる範囲ではあるがアレンジもほとんど同じで、なにか新しい楽器や音が入っているようにも思えない。にもかかわらず思わず声が出てしまうくらいの違いに驚いて、公園のベンチで一人、なぜだか笑ってしまった。

 再録された今の音はとてもまろやかで、一つ一つの音の粒が立っている。それは録音機器の違いなのか、それとも使用楽器の違いなのか。はたまた演奏方法なのか。音楽に明るくないわたしにその答えは分からない。

 世の中にあるほとんどの曲は、譜面という形で残されているわけではない。おそらくこの曲もそうなのではないだろうか。彼らの手でつくられた楽曲は、紙の上で踊るオタマジャクシとしてそこにあるわけではなく、また彼らの中をもう一度通って形になる。わたしはオリジナル曲というのはそういうものだと認識している。

 日本武道館、ありがとうございました!と帯がついたCDに入っていたのは、今の打首獄門同好会が演奏した昔の曲。14年目に訪れたその選択はとてもシンプルだ。

 だからこそ、ひたすらにステージに立ち続けてきた月日によって形作られたものであると思う。ただ日々を過ごしているだけでは歴史は見えづらい。どこかにしるしをつけて振り返らなければ、見えないものなのだ。

 

【4. おわりのうた】

 ライブが終わると必ず客出しと呼ばれる時間がやってくる。

 世の中にはトリプルアンコールといった風に何度もアンコールがあるバンドもあって、終わりがいつになるのかというのは、それぞれの演出による。そんな時もわたしたちは会場に流れ始めた曲を合図に、その日の終わりを知るのだ。

 武道館ライブの前、打首さんたちは宣伝のためにいくつかのテレビ番組に出演していた。インターネットがこれだけ影響力をもっていても、広く伝えるということに関してテレビというメディアはまだまだ圧倒的な強さがある。

 『歌詞が面白い』『歌詞が強烈』『怖い名前のバンド名』『生活密着型ラウドロック』…そんな風に、普段音楽を聴かない人たちに向けて紹介するための言葉は、どの番組もある程度共通していた。限られた時間で伝えるための記号のようなものだ。

 この『おわりのうた』は、武道館の客出しに使われていた曲であり、わたしたちにとってエンディング曲となったものだ。
 あれだけ歌詞が歌詞がといってテレビに出ておいて、最後にこのインストゥルメンタルを持ってこられてしまえば、もう何も言えなくなってしまうではないか。

 どのバンドにも、そのバンドのグルーブがある。それが何かと聞かれたら、言語化して伝えられるほどのものはないけれど、そこはもう好みとしか言いようがないのではないだろうか。
 音楽理論に明るければ、体系化して分類できるというだけで、結局は好きか嫌いかの世界なのだ。音楽とはそれほどに、人の感情と近しい関係にある。

 わたしは歌っているようなギターの音がたまらなく好きだ。そして3ピースの打首さんでは、ライブで絶対に聴けないであろう、ユニゾンした音はずっと聴きたかったものでもある。

 とにかくインストゥルメンタルの「これは歌モノではないので楽器隊が好きにやらせてもらいますよ」という3人のプレイヤーたる感じが、わたしはとても好きなのだ。

 この『おわりのうた』はどこか寂しげで、でも高原を走っていくかのような爽快感もある。3人が奏でるハンドクラップの軽快さは、まるで互いを讃える拍手のようだ。

 明るくなったフロア、誰もいなくなったステージ、最後のメッセージを残したままのモニター。現実と興奮の狭間に気持ちを落とし込んで、余韻を残しつつも外へと出て行くわたしたちに向けて作られた曲。
 ステージを降りた彼らも聴いていただろうか。どんな気持ちで最後にこれを用意していてくれたのだろう。

 知名度が上がったこのタイミングで、物販と通販でしかCDをリリースしないという決断。今ならタワレコだってHMVだってヴィレヴァンだって、どこだって、しっかりとした流通販路にのせられるはずだ。でもそうしないその理由については大澤会長のTwitterに書いてある。

 わたしはそれをちゃんと理解したつもりでいた。「なるほどなー、たしかに」などと分かったような気がしていたのだ。
 一般向けではない、たしかにその通りだと思う。武道館連動と表現されるこれは、あの日武道館に行った人、そして行きたかったけど行けなかった人。そんな非常に狭い範囲をターゲットにして作られたものだ。だからなのか、わたしには何度聴いてもこのアルバムから「ありがとう」しか聞こえてこない。

 販路を狭めると決めていながら、しかし売り切れにならないよう、たくさん作ったという春盤。一体なんのデータを用いて発注数を決めたのか。
 儲かっていないとは言わない。成し遂げた人たちにはそれ相応の対価が支払われるべきだとわたしは思う。だがきっともっとシビアに数字を出してしまえたなら、諭吉ともっと密接な関係を築けたのではないだろうか。

 翔け上がるように展開した曲が静かな響きへと変化して、『おわりのうた』は『はじまりのうた』へとつながっていく。終わってほしくない夢の1日が、新たな始まりを連れてくる。そうやって、ここまでの全てはつながれているのだということを知る。

 そうだった、わたしたちは次の約束をしたのだ。

 それは日本のどこか。わたしたちが会いにいくのか、それともまた来てくれるのか。どちらなのかは分からないけれど、どこかでまたいつかきっと会えるでしょう。ライブハウスで。

 

 柔らかな日差しが差し込む古びた公園の片隅、わたしのところへようやく春が届いた。

 

 

【5. 失われし平和な春の日よ/Live】

かふんかふん。最高かよ。